2015年10月25日

初雪のたより。

お寒うございますね。
ついに初雪が降りました。

昨年はうちの猫も産毛の赤ちゃんだったので獣医さんから
「室温は28度程度にしておいてください」
って言われ、涙ながらに月に二万円分の灯油を燃やす、という恐ろしい冬を過ごしましたが
今年はもう立派に猫になっているので、昨シーズンのような贅沢はなし、
自分の冬毛で乗り切るように言い聞かせております。


猫
↑近い近い。

古い古い一軒家で過ごす二度目の冬、
家じゅうの水道管やらなにやら凍らせないためにはある程度火の気はたやすわけにいかない、
などなど、まあ集合住宅時代にはなかった憂鬱もあることはあるんですが
寒い冬を猫と身を寄せ合ってふるふる震えつつお茶を飲むのも
実はそれなりに楽しみといえば楽しみなのでした。
寒い季節に猫というのは、とりわけよく似合うように思いますですね。


猫
↑冬も元気でいこうぜ、へーい!

←抜け毛の量も落ち着いて、どうやら猫はもう冬支度住んでいるらしいです(そのわりに寒がり)


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2015年10月18日

進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンド オブ ザ ワールド 〜あの人がアレってのはさすがにアレでは。

進撃の巨人の後編を見てきましたですよ。遅ればせながら。
進撃の巨人 ATTACK ON TITAN
→公式サイト「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」

前編を見たときには
「ひどいところいっぱいあるけど、大筋で嫌いじゃないから引き続きガンバッテ」
と思ったのです。
今回はその続きということで、できるだけハードルを下げつつ、お迎えにいく姿勢で見に行ってきました。

前編がわりと嫌いじゃなかったのは、いろいろ問題があるにも関わらず
「巨人がぞろぞろ出てきてどっぱんぐっちゃんのキモイ世界を作りたい!」
っていう情熱が伝わってくるあたりが、かわいらしい作品だったからなんですが、
その点後半では、ストーリーの落とし前をつけつじつまを合わせよう、と気を使った結果、
異常さがパワーダウンして、そのわりにつじつまもあってない、中途半端な印象でした。

(一番核心部分でネタバレしますので、これから見に行く人は読んじゃいやよ)

巨人と戦うための軍隊を統べるナチ総督っぽい司令官クバルっていうオリジナルキャラが出てくるわけです。
どう見てもラスボスの面構えで出てきてるのが面白いんですけども。
進撃の巨人
この人が要するに、人類を守るための軍の司令官というのは表向きで
実は人類を壁の中に閉じ込めて自分のコントロール下に置こうとしてる
エリート支配者だってことが、まあ明らかになるわけです。

一方最初はクバルの部下だったけど、反逆を企てたのがシキシマ隊長
進撃の巨人
クバルに支配されて安穏と暮らしてる人類を見てるうちにめっぽう腹がたってきて
「壁なんか壊せー!頭の弱い家畜は全部死ねっ!この世をマッドマックスの世界にっ!」
と思うようになってきちゃた過激派ですね。

そんな中に、ぼんくら主人公エレンは、人類のためにとクバル指揮下に入っってきちゃったのでした。
進撃の巨人
ところが「実はクバルたちが全部悪いんだぜ、俺とお前でこの世を火の海にしようぜ」
とシキシマにリクルートをかけられて衝撃を受けます。
自由はほしいけど弱いやつは全員死ねっていう言いぐさも納得いかないよなあ」、
と思ったエレンはクバルともシキシマとも対立して、少数の仲間の兵士とともに人類を守るための壁の穴をふさぎつつ(←クバル案部分採用)、自由に憧れを持つ自分とミカサだけは壁の外に出ていくことに決める(←シキシマ案部分採用)わけ。

巨人は兵器として改良された人間なのですが、暴走しはじめたので過去に封印された技術だということも
この対立の過程で、明らかになるのです。
ここまではよかったのですよ。

でも、この三陣営の実質的なボス、クバル、シキシマ、エレンの三人が
三人とも実は巨人、ってのは、明らかにおかしくないか?

巨人化っていうのは危険すぎるので捨てた技術のはずなのに
なぜか知性を持ったまま巨人化できて、また人間にも戻れるニュータイプ人類がちょっとだけいる、ってのがそもそも混乱の始まりなわけです。
その力をただ抑え込もうとしているクバル司令官はオールドタイプじゃないとこの対立構造はそもそも成立しないような気がする訳ですよ。

権力欲の強いオールドタイプのクバルが、未知の力に対する嫉妬や恐怖もあって、
シキシマやエレンの自由への意志や勇気をやたらと嫌悪して亡き者にしようとしてる、
っていうのなら理解できるのです。
でもクバル自身がニュータイプなんじゃあ、もう何しようとしてるのか訳わからんだろう。

絶対に分かり合えない壁として、新旧の人類の間で能力の「壁」があるっていう訳ですらなく
対立してる全員がニュータイプで、それぞれで人類の統治の仕方とか考えてるなら
「それはお前たち三人で話しあってうまくやれよ」
ってだけの話であって、なんで壁作ったり壊したり、という茶番が行われてるのかそもそもよくわからない。
主たる対立の軸はいったいどこに。

あと、こまごまと気になったところいくつか。

「住むところを決める自由も、子供を作る自由もない、家畜の暮らしにうんざり」
ってシキシマやエレンは繰り返しいうのですが、
エレンの仲間のサンナギっていう兵士は弟妹が多くて暮らしが大変、っていう設定だし、
別の女性兵士は、自分の子供のお父さんになってほしいって言いながらおっぱい放り出してエレンに関係を迫ってたし、
どう見ても、むしろ子作り放題ワールドにしか見えなかった

それから前編では結構真面目に人間を襲っていた知性のない方の雑魚巨人たちは
後編では誰一人として人類を襲うことなくいたって平和に暮らしており、
普通に人類と共存できそうな牧歌的な種族としか見えなかった。
進撃の巨人
↑前編はこういう巨人による人食いシーンがよかったわけですが、後編では牧場で眠る怠惰な牛みたいな扱いになっていてびっくり。

あとは、みんな大好き石原さとみ。
彼女はすごく頑張って誠実にひたむきに演じた結果、一人だけ芝居が漫画で周りから浮いておりますね。
後編は、とくに並々ならぬ「努力が裏目に出てる感」を醸しだしていたんですが、
私の中では石原さとみの株は急上昇しまして、「とってもいい人なんだな」って思いました。
ああいうのって、演技全体の世界観とかを合わせて調整するのが監督とかの仕事じゃないのですの?
あれではさとみちゃんが気の毒じゃないかっ。
進撃の巨人
↑もはや誰だかわからないレベルの奮闘ぶり。

さらにはシキシマがエレンの元カノのミカサとこれ見よがしにちゅっちゅちゅっちゅしたり、
執拗にエレンを侮辱していたぶったりするので
たぶん極限まで怒ると巨人になっちゃうので、それを誘発しようとしてわざと挑発しようとしてるんだろうなあ、と思っていたら、
別にそんな設定はなかった。
……っとなると、なんのためにわざわざ戦場で嘘くさいちゅーしてたんだ?そういう性癖なのか?
進撃の巨人
↑わざわざ小道具のリンゴを用意してまでどうしても戦地でいちゃいちゃしたいとなると、なかなかの性癖ですぞ。

そもそも思い返せば、前編では壁の出口に「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」って書いてあったりしたから
後編はシキシマの主導で地獄めぐりの映画になるんだと思って勝手にわくわくしてたのに、あのダンテの引用は全く回収されてなかったのがものすごく残念でした。
巨人が手替え品替え人類をさいなむ地獄を巡る旅物語、見てみたかったなー。
(ラストシーンは「失楽園」を連想させる演出で、そういう宗教映画風味のところってちょっと好きなんですが、それにしてはミカサがいったい何のために出てきたキャラなのか判然としないのでやっぱり残念感の方がつのる)。


以上、面白い変わった映画になる要素いっぱいあったのに
なんかもったいなかったなあ。

←前編の方が地獄感あって面白かった
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2015年10月13日

猫にノーベル賞


こんにちは、スーパーカミオカンデです。
猫
今日はこれを言いたかっただけなので
無理してこれ以上付き合ってくださらなくっても大丈夫ですよ。
ほんとすいません。

思い起こせば子猫のころは、なんとかして大人になる前に噛み癖は直したいと思いつつも、
歯がしっかり成長しきってかゆいとか、いずい(←北海道弁だけど適切な標準語が思いつかなかった)とかが
なくなったらあるいは自然になおってくるのかな、
と期待していたものです。
ところが、一歳を過ぎて成猫となってもそれはそれは楽し気に人を噛むことをやめる気配は全くなく、
相変わらずカミオカンデな毎日。
ノーベル賞受賞の知らせも、とても他人事とは思えない昨今なのでした(なんなんだ)。

でも毎日じっと見てると、どれだけ人の暮らしに近づいても、声帯の構造上人間の言葉を話すことがかなわないこの子にとっては
「歯で思いを伝える」みたいなことも、大切なコミュニケーションの手段なんではないか
と思えてもくる折も多々あり、
そう邪険にしたもんでもないな、と思ってみたり、
あんまり痛いときはやっぱり大人げなく腕振り回して追い回したり、
翻弄される毎日なのです。




急に思い出して「吾輩は猫である」なんか読み返してみたりしておりますの。

吾輩は猫である (角川文庫)

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たぶん、学生のころ読んだ時には
「なんだか妙に要点のつかめない話だな……」
というような感想を持った記憶があるのですが
今読み返してみると、適当なところから読み始め、適当なところで読み終わるのにこんなに気楽で楽しい話もそうないな、と思うことであります。
全編無駄話、といってもいいようなふざけた話なのに、文章の方には一切無駄がない、という
効率良いような悪いような不思議な読み物で、痛快極まりない、と思うのは
自分がオトナになって心の余裕をもって本を読むようになったからなのか、
猫に対する思い入れが異常に深まった挙句、猫の関係する一切の創作物に対して感受性が著しく堕落しているのか、
まあ、おそらく両方なんでありますね。

「吾輩は猫である」を読みながら我が家の愚猫なぞを改めてよく見ていると
「こやつも結構冷静にこっちの愚を観察してるのだろうな……」
という気になってきて、ちょっと改まって丁寧に頭を撫でてみたりするんですよ。
猫
ひしっ!


←猫があんなに容赦なく人間を観察してるんだとすると、ヨガで妙な恰好してるのとかを全部見られているのが、照れ臭くって仕方ないですな。
posted by 六条 at 18:00| Comment(0) | ちーちゃん | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする